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内山緑地建設とは

生い立ち

歴史的記述

「苗木のまち 田主丸」

筑紫平野に流れる筑後川、その南面に耳納連山を控えた田主丸では江戸時代初期より旧有馬藩下において苗木の生産が盛んに行われていました。
1890年(明治23年)内山緑地建設の創設者である内山忠雄の父 内山恵太郎は個人で主にマツ・スギ・ヒノキといった山林種苗の生産・販売業並びに造林業を始めました。
これが、後に内山緑地建設の名称となる会社の創業です。

苗木のまち 田主丸

「植木業・造園業への変遷」

明治末期から昭和初期にかけて山林苗が全国的に生産過剰となってきたことへの不安もあり、当時軍需需要のあった筑後・筑豊の炭鉱の緑化に目をつけ、植木業へと転換していきます。様々な炭鉱の緑化を手がけていく上で、1939年(昭和14年)内山旭農園を設立し、本格的に植木苗木の生産販売・造園業へと乗り出していきます。

炭鉱の景気・同業との競争もあり、この頃にかつて「苗木のまち」と呼ばれていた田主丸は「植木のまち」へと姿を変えていったのです。

「戦後の思い“きっと緑で覆ってみせる”」

炭鉱の緑化に取り組んでいた頃、1941年(昭和16年)内山忠雄に召集令状が届きます。
第二次世界大戦を経験し、終戦後の焦土と化した東京の姿を見て涙した内山忠雄は「きっと緑で覆って見せる」と緑化への使命感を持って田主丸へ戻りました。1949年(昭和24年)に法人組織の合資会社として旭興洋協会を設立し、長い戦争で荒廃した山野の復興に取り組みます。
1953年(昭和28年)に合資会社より株式会社へと移行し、今日の社名である内山緑地建設株式会社が設立されました。庭園をつくる庭師の会社とは異なり、環境緑化の建設工事が出来る会社であることを世間にハッキリと印象付けたい思いから、社名に「緑地建設」と盛り込まれました。
その後、支店網の拡大が九州各地から首都圏へと広がり、今日までの環境緑化活動に至ります。

初代社長 内山忠雄

初代社長 内山忠雄

「内山グループの形成、今日の歩み」

昭和50年代から60年代にかけて、これまで植木の生産・販売、造園工事の設計・施工といった環境緑化の業務を一貫して行ってきた内山緑地建設から、各部門が別会社として独立していきます。
創業より続く山林管理・造林請負業を目的とした内山林業が1976年(昭和51年)に設立されました。
また1985年(昭和60年)には緑化樹木の生産・販売及び造園工事の設計・施工を目的とした内山グリーン、首都圏の公園緑地管理などのサービスを主体とした東京グリーンサービスが設立されました。

各社が今日の内山グループの総合グリーン産業を形成しております。緑豊かな環境をプロデュースする企業として、お客様の多様なニーズにお応えするため、各社がそれぞれ役割を持って取り組んでおります。
これまで蓄積してきたノウハウを持って、より良い環境の創造に日々挑戦していく所存です。

社章の由来

ライトグリーンは未来に向かう、グリーンは緑豊かな地球環境と永遠なる人類の繁栄を願い、レッドは企業(内山グループ)の創造性と情熱を表しております。
地球と企業と人類を表わした三枚のリーフをバックに、内山家の家紋である伝統と信頼を守り続ける亀甲を配する事により、未来を指向した内山グループの躍進を表現致しました。

社章